今日は、自宅での長期療養が気持ちやこころに及ぼす影響について、1年間自宅療養をして、ちょっとそろそろ限界を迎えつつある私から、説明していきますね。
具体例も交えつつ、お話ししていきます。
この記事はこんな人に読んでほしい
- 自宅での長期療養をしている家族がいる人
- 自宅での長期療養をしている本人
- 自宅での長期療養をしている人のこころや気持ちを知りたい人
- 自宅での長期療養がこころや気持ちにどう影響を及ぼしていくのか知りたい人
- 自宅での長期療養をしている人に何をしてあげられるのか知りたい人
- こころや気持ちの問題に関心がある人
私自身も、まだまだ療養生活が続く身なので、気軽にコメントして行ってくださいね♬
目次
自宅で長期療養していると、社会的繋がりが失われる
自宅で長期療養をしていると、最初に、社会的参加と言われている、社会との繋がりが希薄になったり、失われたりします。
長期療養者本人にとって、「療養中」という肩書は、仕事から離れ、友人と会うことから離れることを意味する場合が多いからです。
例えば、「長期療養」に入る前に、仕事をしていた人であれば、1日のうちの8時間は仕事をしていたでしょう。通勤や身支度に、合計1時間程度要していたとすると、毎日9時間暇を持て余すことになります。
また、休日に友人との交流を楽しんでいた人にとっては、自宅での長期療養をしている場合には、
- 出かけられない身体の状態
- 出かけられないこころの状態
- 仕事を辞めているという説明を友人にしなければいけない弊害
様々な理由によって、友人と会うことのハードルが高くなり、結果会うことや頻度・人が制限されることになります。
もしかしたら、「長期療養」をしていても、仕事をしていた時間を遊びに使うことが出来て、友だちと会うことに支障が出ない人もいるかもしれません。
「やったー!時間がめちゃくちゃある!遊び放題だ!」と、「長期療養期間」を楽しめる人もいるかもしれません。
でも、自宅で長期療養をしていると、社会的なつながり、社会的参加が失われやすいということは頭に入れておいたほうがいいことです。
自宅で長期療養していると、社会的役割が失われる
自宅で長期療養をしていると、社会的役割が失われます。
それは、
- 仕事ができなくなる
- 今まで取り組んでいた趣味ができなくなる
- 家事をできる体力が失われる
からです。
社会的役割とは、会社・家族などのグループの中で、自分は役に立っている状態、役割がある状態のことを指します。
自宅で長期療養をしていると、社会的役割が失われやすいです。
- 家族からは、無理をしないように声をかけられたり
- 身体やこころの状態によって、役割を持てない状態であったり
- 身体は元気でも、こころの状態によって、安定して家事を出来なかったり
- 仕事を辞めることによって、役割を失ってしまったり
するからです。
社会的役割を失うことによって、自分は役に立っているという気持ちを感じる時間が失われます。
人は、誰かの役に立つことで、喜びを得たりするものです。(それだけではないですが)
自分が役に立っている、という機会が失われやすいことも、頭に入れておきましょう。
自宅での長期療養をしていると、気持ちが落ち込み気味になりやすい
自宅での長期療養をしていると、気持ちが落ち込み気味になりやすいです。
それは、
- 社会的参加の機会の喪失
- 社会的役割の喪失
が起きやすいからです。
誰かと話をしたりすることで、人は自分との違いを認識したり、似たような所を見つけて嬉しくなったりします。
人の役に立つ機会を持つことで、自己効力感(自分は役に立つ人間だと思うこと)を持つことが出来ます。
この2つが失われることによって、
- 自分とはいったい何者なのか
- 自分はどういうものが好きなのか
- 自分はどうしたいのか
- 自分は、生きているに値するのか
と感じることが多くなりやすいです。
では、自宅での役割を与えたらいいのか、と言われると一概にはそうとは言えません。
出来ない状態の人に、役割を押し付けるというのは、「出来なさ」をより強く感じさせ、落ち込む気持ちにさせる可能性があるからです。
長期療養している本人のために、周囲の人ができること
それでは、自宅で、長期療養している本人のために、周囲の人は何が出来るのでしょうか。
その答えは、ここで出すことは出来ません。
答えは、1つではないからです。
ここで2つ例を出しましょう。
①自宅で1人暮らしになった、うつ状態になりかけていた祖母の話
私の祖父が亡くなった時、祖母は一人暮らしになりました。
気持ちが落ち込み気味で、元々泣き虫なのもあって、表情変化に乏しくなっていき、食欲が低下していることが、たまに顔を出すだけの私からも感じられるほどでした。
それまで、料理やお裁縫が好きだった祖母の元気が明らかにありませんでした。
私は、作業療法士の孫として、何が出来るか考えた時に、お裁縫が得意な祖母にあることを頼みました。
それは、「毛糸の帽子をつくってほしい」と頼むことでした。
祖母は、「そんな元気ない」「目も見にくくなった」「毛糸は安いやつじゃ寒いから選ばないといけないし、連れて行ってもらわないとひとりでは行けない」と言いました。
私は、これに対して、「(しめた!)」と思いました。
何故かというと、「毛糸を選ばないといけない」「連れて行ってもらわないとひとりで行けない」という2つの課題が祖母の中から出てきたからです。
それに対して、私は「へぇー、毛糸って種類があるんだね。100均のやつでもいいのかと思った。そんなに違うの?知らなかったし、全然わからないやー。」と返しました。
すると、祖母からは、相変わらず元気のない、小さな声でしたが、「全然違うのよ。前あげた帽子もあたたかかったでしょ?あれ使ったらいいじゃないの」と返ってきました。
それに対してさらに私は、「あの帽子は、おじいちゃんのでしょ?私は、赤い帽子がいいの。ちょっと模様が入った、可愛いやつ。真っ赤かじゃなくて、落ち着いた赤のやつが欲しいの。」と続けました。
すると、「赤って言っても、あんまり派手なのもアレだしね。ちょっと落ち着いたのがいいわよね。毛糸を選ぶのも、見つけるのも大変なのよね。模様を編むのもよくやったなぁ。もうできないけどね。」と。
ここでも、(これはしめた)と心の中で思った私は、「模様ってどうやって入れるの?私、アクリルたわしを学校で作ったんだけど、四角くならないんだよね。かぎ針で編むやつ。かぎ針も、どれがいいか分からないし、編んでもゆがんじゃうし。模様入れるの難しい?」と。
すると、祖母の顔に活気が少し戻ってくるのを感じました。きらりと、光るものが見えました。
「かぎ針編みのタワシなんて簡単じゃない?」そう言いながら、押し入れから、ささっとかぎ針と、余った毛糸を出してきてくれました。それを祖母から、私はやや奪い取るようにして、「貸して」と言い、編み始めました。
案の定ゆがんでいく、私のタワシを見ながら、祖母は、ぁぁでもない、こうでもないと口を出すようになりました。
そして、私の手から、「ちょっと貸して。」と。
「こうやって、同じ力で編んでいけばいいだけなのよ。これは安い毛糸だけど、帽子を編むなら、あたたかいやつがいい。こんな派手な色じゃなくて、…いくつ買ったらいいかしら。あんたの頭の大きさなら、ぁぁ、1人にあげると、他の孫も欲しがるから4つ編まないといけないわね。色は何色がいいかな。今度、誰かに連れてってもらわないといけないじゃない?買い物に行くと、その日寝込んじゃうのよね。あんまり、いっぺんにやると疲れちゃって倒れちゃうんだから。時間がかかるけどごめんね。」
そう言って、祖母は、あっという間に2週間とかからず、帽子を仕上げてくれました。
私たち孫の分だけでなく、他の作品もつくったようでした。
しかも、模様入りの帽子。
そして、帽子を受け取った私に、「てむちゃんに、してやられたわっ。やり出したらとまらなくなっちゃって、楽しくなってきちゃったの。さすが、作業療法士さんね。」と。
①祖母を動かしたものはなんだったのか
私が、作業療法士として考えて、うつ状態になりかけている祖母に出来ることは、「役割を持つこと」「社会的参加を促すこと」の2つでした。
でも、それは、
- たまには外に出かけてきたら?
- 誰かの役に立つボランティアをやってきたら?
- 気晴らしに、楽するために、ちょっと近くで美味しいゴハンでも食べてきなよ?
そんな声かけでは、叶わないことです。
祖母のために私が出来ることは、
- 祖母が好きな活動を探り、
- 祖母が「やってあげたい」「手伝いたい」と思う気持ちを引き出し
- 祖母が自分で、誰かに外に出かけたいと頼み
- 外に出かけて、自分から誰かと関わり
- どうやってその活動をしたら上手くいくか自分で考える
その機会をつくることでした。
まさに、祖母を動かしたものは「役割意識」「社会的参加」でした。
②自宅での長期療養をしている私の場合
自宅での、長期療養中とは、少し話がズレましたが、私自身が、作業療法士ということもあって、「社会的参加」「社会的役割」の大切さは、理解していました。
自分自身で、この機会をつくらないと、長期療養中に、確実に病むことは分かっていました。
ただ、それを、どうしたらいいのか、どう役割を獲得して行ったらいいのか、社会と繋がっていったらいいのかを、見つけることが上手くできないでいました。
療養生活を始めた時、退職して長期療養に本格的にはいる時に思いついた「役割」は、
- ブログ+ツイッター
- 家の家事
でした。
ネフローゼ症候群という病気で、ステロイド治療をしている。
副作用があり、ステロイドうつや、副作用による容姿の変化があっても出来ること。社会と繋がれること、社会の中で役割を持つこと、それを考えた時に、やっとひねり出したのが、この2つでした。
私は、夫と2人暮らしのため、日中は人と関わることができません。
そのため、人と関わることが極端に減りました。
元々、人と関わることが好きで、人と関わる仕事を選んできた私にとって、大きな喪失でした。
誰かの役に立ちたい、という気持ちが強いがために、作業療法士の仕事を選んでいるということもあり、仕事を退職するということは、これまた大きな喪失でした。
それを、補うために、「人の役に立つ・人と関われる」という活動内容を満たしている、自宅で出来る活動が、ブログ・家事になりました。
ボランティアに出たり、合唱団に入ったりということも考えましたが、体調に波がある中で、どこかの団体に所属することは、療養生活を始めた段階では考えられないことでした。
ブログにどれだけ支えられ、ツイッターで知り合った方々と話すことに沢山助けられているのは、言うまでもありません。私にとって、社会的繋がり、人と接する機会、友だちと話す機会、とても大切な時間です。
ふとしたことで、お礼を言われたりしたときには、びっくりするくらい喜んでいます。私の病んだツイートでも、気持ちの変化が追えるブログでも、それが参考になると言われたりすることもあって、「こんなツイートが役に立つの?」と驚いたことは、記憶に新しいです。
自宅での長期療養中には、本人の気持ちやこころのケアも大切だが、家族の気持ちやこころのケアも大切
自宅での長期療養中には、本人の心のケアも大切ですが、家族の気持ちや心のケアもたいせつです。
この、記事を読んでくださっている方は、きっと、ケアをする側の方だと思っています。
自宅で長期療養をしている本人のこころのケアをすることは、とても大切です。
それは間違いありません。
でも、それと同じように、それ以上に、家族のこころ、気持ちのケアが大切です。
バーンアウトと言って、燃え尽きてしまう家族さんを、私は病院や老人ホームで働いている時に山ほど見てきました。
- 燃え尽きてしまって、うつ状態になってしまう人
- 燃え尽きてしまったがゆえに、本人さんとの関係性が崩れてしまった人
- 燃え尽きてしまって、心身共に本人さんより病んでしまい、入院することになった人
そんな人をたくさん見てきました。
そんな人を見るたびに、そんな状況になりそうな人を見るたびに、先輩や同僚と「バーンアウトする前に、関係性を保つために、ここに(老人ホームや病院)に来てほしいよね。」
そういう話をしていました。
バーンアウトしてからでは、回復するまでに時間がかかります。
本人を支えるのは、1人でなくていいのです。
家族でなくても、親戚でなくてもいいのです。
色々な、病院・施設があるのは、承知しています(よくない意味で)。それでも、頼るための施設です。
そこで働く人は、聖人ではありません。人間です。ただのちっぽけな、一人の人間です。
今できることは、限られているし、バーンアウトしてしまうことは、自宅で長期療養している本人も望んでいません。
だから、周囲の利用できるサービスを使い切ることが大切です。
自宅で長期療養している家族がいる場合に、なにをしたらいいのか。
自宅で長期療養している家族がいる場合には、なにをしたらいいのか。
そう考えて、このページにたどり着いたのではないでしょうか。
それか、自分が長期療養しているから、同じような境遇の人はどうやって乗り切っているのか知りたくて、たどりついたのではないでしょうか。
なにをしたらいいのか。
まずは、自分が健康で、しあわせでいることが一番大切だと、最後にお伝えしたいです。
自分がしあわせでないと、他の人を支えることは出来ません。
療養中の身であれば、自分のために、今できる範囲で、やりたいことを思い描いてみましょう。
私であれば、昨日は「スタバに行きたい」と思い、行ってきました。「お金がかかるから」とずっと避けてきたスタバに行ってきました。そして、そこで本を読んできました。
読みたい本があったからです。読みたい本があれば、ヤフオクやメルカリなど中古のものをネットで手に入れられるかもしれません。少し調べてみましょう。
療養中だから、お金を使えない、そんなことを思って躊躇することは沢山あります。でも、安く手に入れる方法、今の自分が出来る範囲でできることは、案外、ぽろっと見つかったりすることもあります。(みつからないこともありますけどね。)
支える側であれば、自分がしあわせであることを一番優先しましょう。
そして、余裕が出来たら、自分がしあわせで過ごせたら、支えることを考えましょう。そのために、周囲を頼りましょう。誰かに相談しましょう。ツイッターでも、ブログでも、どこかに思いを吐き出すことから始めてみましょう。
オンラインカウンセリングという、臨床心理士さんと話すことのできるサービスも見つけました。
この世界のどこかに、同じような悩みを抱えて、一人で悩んでいる人はたくさんいます。
ツイッターにも、ブログにも、います。
支えることは出来ないかもしれないですが、一人じゃないって思うだけでも、少しお話ししてみるだけでも、その人の存在が、心の支えになってくれたりするものです。
私がそうであるように。
ではでは。
もし、本を読む時間が少しでもあって、絶望している状況であれば、フランクルの「夜と霧」を読んでみてください。途中で離脱すると、暗い話の途中で終わってしまうので、最後まで読める気力がありそうと思えたら、読んでみてください。
心理学者のフロイトやアドラーに影響を受けた精神科医のフランクルのユダヤ人の強制収容所にいた時の体験に基づく経験が、精神科医の視点から綴られた本です。
きっと、絶望している時の救いになってくれるはず。
普通に、精神医学や心理学に興味がある人も読んでみると、「面白い」とは言いませんが、興味深い本ですよ。
ではでは。