こんにちは。てむたむ(@temtam8)です。
前回は、精神科作業療法士になる夢を叶え、1人暮らしをし母親との共依存関係を断ち切る生活を始めたところまで「母親との共依存から脱却。うつ病やパニック障害付き合いながら、夢を叶えました。」でお話ししました。
私の、ブログをはじめるまでのエピソード
今回の話で、私の生い立ちについては最終話です。
機能不全家族の中で育った自分は、まともな結婚・出産は自分にはできないと思っていました。
作業療法士になる夢を叶え、結婚をし、妊活に取り組もうとした現在までの話を綴りました。
仕事は大変だけど楽しい
人と関わる、病院での仕事は、大変なことも多く、人と関わることが苦手な私は上手くいかないことも山ほどありました。
学歴だけ高かったので、
- 変に遠慮される
- 「高学歴だからって仕事ができるとは限らないな」と嫌味を言われる
ということがあり、学歴なんてなければいいのに、と何度も思うことがありました。
テストができるから仕事が出来るなんて限らないのにね。
たまたまテストに受かって、大学に入っただけで、「プライドが高そう」「自分は頭がいいと思っている」と言われるのは、1周りも2周りも、縮こまって仕事をする必要がありました。
国公立大学を出てよかったのは、
- 学費が安かったこと
- いい教授に出会えたこと
- 色んな人に出会えた
- 沢山の本や資料があった
ことかな。
そんなこと言ってくる人たちは、気にしなければいいんだけどね。
こうやって書き出してみると、よかったことは沢山あったんだなとやっと今思えました。
職場結婚しました
今の、夫に出会ったのは、就職先の職場。
時期を見計らって、結婚の報告をし、職場結婚なのもあって、職場の方たちをたくさん来ていただいて結婚式をしました。
結婚式をするにあたって、抵抗感がありました。
- 母親への感謝の手紙
- 母親と歩くかもしれないバージンロード
- 親に感謝する儀式のような式
- 傷ついた過去をなかったことにして、「母親」として参加されることの辛さ
逃げるように一人暮らしをしていたのに、またしても向き合う必要があった家族の問題。
式場の人や職場の人、友達、何の悪気もなく、当たり前のように、親への感謝を求める雰囲気、祝福ムードに包まれる自分。
それに応えなければと、無理をして、無理をして、笑って、親のためにお金を使い、感謝の言葉を口に出し、過ごした期間。
夫には、事情を話していましたが、夫の両親には心配をかけたくなく、話せず、両家顔合わせも、なんのことなく終了。
結婚式の準備では、プランナーさんやいろんな方に、お涙頂戴の「感謝の手紙」を勧められ、何度も強く勧められて泣いて拒否しました。
楽しいことももちろん沢山あったし、ドレスを沢山試着できたのは本当に嬉しかったですよ。
バージンロードは夫と2人で歩き、花嫁の手紙を入れる隙間のないくらいイベントを盛り込み、花束贈呈は、「これからよろしくお願いしますの気持ちで、私は夫の両親へ、夫は私の母親へ」という形をとり、色々な地雷を回避しました。
当日は、会いたい人達がお祝いにきてくれ、友達と一緒にうたを披露し、無事に終えることが出来ました。
たくさんの人が来てくれたおかげで、「家」という意識を薄くして、式を出来たのが私にとって幸いでした。
ただ、精神的に疲労しすぎました。
式を終えてから、自律神経失調症になり半年休職
式を終えてから、体調がどんどん悪くなり、結婚式後1か月で休職に。
式をしたことでの、母親との関係性のストレスや、職場の同僚からの過干渉で、大きく体調を崩し、眠れなくなり、薬の依存や情緒不安定さからODをしてしまうほどでした。
結婚後に行こうとしていた旅行の計画を立てるのもやめて、自律神経失調症で休職しました。
実家との距離感を見直し、母親には、私に連絡するのではなく夫を通して連絡をしてほしい旨を伝えました。
休職期間中に叔母さんや祖母の家に気分転換に行き、過去の事を話してみましたが、
- 許してあげて
- お母さんも大変だったのよ
- これからも支えてあげてね
- お母さんは、孫にも会えないってこと?
と、小さい頃の私の苦労に対する言葉は一つもなく、落胆と絶望。
むしろ、孫の顔も見せるつもりがないのかと責められるような言葉を投げかけられ、
と確信を得た期間でした。
祖父がこの頃に、入院し亡くなり、そのお葬式で久々に母親と対面しました。
受付やお金の管理は私がやり、式の間も走り回る役回りに。
お葬式が無事終わったと思ったら、式で走り回っていて、お別れの挨拶もろくにできなかった私に対して、母親が近づいてきました。
「みんなが泣いているから、私泣けなかった。本当に損ばかり。」
と。
私の中で、
と、なにか確信を得たような瞬間でした。
パートとして復職、正社員へ戻る
自律神経失調症になって、半年の休職を経て、実家との距離をしっかりと取りながら、体調を整え、パートとして復職し、徐々に慣れてきたところで正社員にもどりました。
仕事は忙しいけれども、人と関わる仕事、人の人生に関わる仕事はやりがいがあり、私の楽しい時間でもありました。
誰かの人生に関わらせていただける老人ホームでのお仕事は、貴重な時間です。
正社員に戻り、妊活を考え出す
正社員に戻り、生活も安定し、夫との生活にも慣れてきた頃、ずっと悩んでいた妊活の事について考えるようになりました。
自分の育ってきた環境もあり、自分も同じような子育てをしてしまうのではないかと、ずっとずっと怖がっていました。
という願いを持ちながら、
と思っていました。
だから、妊活については、恐怖でもあったのです。
夫の家事スキルの向上がゆっくりで、新婚当初は、私がいっぱいいっぱいになっていたのもあって、このまま子どもが増えたら、私1人では手に負えないと思っていたこともあったのですけどね。
新婚当初の話については「新婚生活に疲れた!女性役割の呪いを解いたら楽になるかもしれません。」でまとめたので合わせて読んでみてください。
夫が、家事を少しずつ、練習をしてくれ、徐々に安心できる時間が増えました。
そして、妊活をするのかどうかを決めなければなりませんでした。何故かって、私は生理痛がとても重いので低用量ピルを服用していたからです。妊活を始めるには、ピルを止め、重い生理痛を抱えながら仕事をしなければならないリスクも抱えていました。
たくさんの葛藤と、夫との喧嘩を繰り返し、話し合いをし、妊活を始めることを2人で決めました。
夫は、ずっと避けていた、精液検査を受けてくれました。
妊活を始めて、1か月後にネフローゼ症候群に
妊活を始めて、色々な検査を受け始めました。
妊活後の生活についても、話し合っていたので、注文住宅を建てるために建築会社と土地探しをはじめました。
2人で決断してから1か月後くらいに、私はネフローゼ症候群になりました。
歩けなくなり、食べられなくなり、座っていられなくなり、仕事も休職しました。
ピルを辞める・妊活を進める・家を建てるという決断をして、1か月で難病になりました。
なんてタイミングなんだと、入院したベッドで2,3日は息を殺して泣いていました。
今後、妊娠できるのかもわからない、仕事に戻れるのかもわからない、原因が不明で再発率も高い難病になり、先行きが不透明過ぎて、思考が停止しました。
すぐに飛んできてくれたのは、夫の両親でした。
3時間かかる道のりを、入院2日目に飛んで駆けつけてくれました。
そんな不安定な私に、ただただ寄り添って一緒にいてくれた義父母には、感謝しかありません。
夫の義父母には孫の顔を見せられないかもしれない、金銭的にも困らせてしまうかもしれない、沢山の心配をかけてしまうかもしれない。
そう思ったら、申し訳なさしかありませんでした。
ただ、その時に同時に、
と、ストンと覚悟ができたように、私の中で腑に落ちた時間でした。
この先の話については、「わたしがブログをはじめたわけ」という記事で書いているので、合わせて読んでみてください。
ブログを始めるまでの私の生い立ちをここまで読んでくださりありがとうございます。
今は、治療をしながら、やりたいことを叶えるために、夫と2人で楽しく生活しています。
生きていれば、悩みや困難さは誰しもあるものです。
私の経験や、楽しいこと、嬉しいこと、つらいこと、色んな話が誰かの励みや楽しみになればと、ここにこれからも綴っていきますね。
ではでは。
私の、ブログをはじめるまでのエピソード
その後の、私のエピソードは、こちらです。